トヨタ2000GT 世界に誇る日本の“スーパーカー”

40代後半の私は、いわゆる“スーパーカー世代”の1番端っこなんです。小学生の頃はあちこちでスーパーカーショーが開催されていて、カメラをぶらさげて走り回ったものです。もちろん花形はフェラーリやランボルギーニ、ポルシェなどでしたが、子供ながらに“きれいだなぁ”と感じていた小さな車がありました。“トヨタ2000GT”です。

これがTOYOTA2000GTです

ご存知ない方や、名前は聞いたことがあるけど見たことがないという方がいらっしゃるかもしれません。
まずは2000GTについてご紹介します。

画像と諸元など

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%83%BB2000GT
どうです?この美しいデザイン。
1960年代の日本に、これだけのデザインができる人がいたことに驚きですね。
当時の5ナンバー枠に納まるように、しかも窮屈にならない伸びやかなフォルム。何度見ても堪りませんね。
とりあえず諸元を。

乗車定員:2名
ボディタイプ:3ドアハッチバック
形式:MF10型
エンジン:1,988cc 3M型直列6気筒 DOHC
最高出力:150ps/6,600rpm
最大トルク:18.0kgf·m/5,000rpm
変速機:2000GT専用5速M/T(後に3速A/Tの設定あり)
駆動方式:FR
サスペンション:4輪ダブルウィッシュボーン(コイルスプリング)
全長:4,175mm
全幅:1,600mm
全高:1,160mm
ホイールベース:2,330mm
車両重量:1,120kg

小さいながらも

諸元をご覧いただいてお気づきだと思いますが、驚くほど小さな車なんです。トヨタアクアよりも15センチ長いですが、9.5センチ幅が狭いんです。高さは大人の胸くらいしかありません。たくさんの車に囲まれていると、本当に小さく見えます。
でも1台だけで置いてあると、およそそんな風には見えないんです。画像で見てもそうですよね。大きさを比較する対象がないと、とてもそんな小さな車には見えないんです。
それだけこの車が放つ存在感というか“オーラ”がすごいのでしょうね。
私は恵まれた環境にいますので、車で20分ほど走ればトヨタ博物館でいつでも見ることができるのですが、何度見てもその存在感に圧倒されます。

当時の技術をすべて注いだ1台

DOHCエンジン、4輪独立懸架、5段フルシンクロメッシュ・トランスミッション、4輪ディスクブレーキ、ラック・アンド・ピニオン式ステアリング、リトラクタブル・ヘッドライトなど、1960年代中期に全て装備している車は、当時としてはこの上ないの高性能車と言えたでしょう。トヨタ自動車ではこの車から本格採用されはじめ、1980年代以降の量産自動車では珍しくない装備になりました。
軽量化のために専用デザインの鋳造マグネシウム製ホイールまで用意されたのも異例と言えます。

ボディデザイン

当時のスポーツカーデザインの基本どおり、長いボンネットと短い客室部を低い車高に抑えつつ全体に流麗な曲線で構成された美しいデザインです。先行して開発されていたジャガー・Eタイプ(1961年)などの影響を指摘されることもありますが、当時の日本の5ナンバー規格の枠内でコンパクトにまとめられながら、その制約を感じさせない美しいデザインとしてとても評価が高いのです。
ヘッドライトの高さ確保するため小型のリトラクタブルタイプとし、固定式フォグランプをグリルと併せて設置したフロント・ノーズの処理も類を見ない独特の魅力があります。
このデザインは、発表当時トヨタ自動車の社内デザインであることだけが公表されましたが、トヨタ自動車のデザイナーであった野崎喩氏を中心にデザインされたことが21世紀に入ってから明らかにされています。晩年の野崎氏本人によって、当時のスケッチやデザイン過程についての談話も公表されています。
野崎氏は、1963年にデザインを学ぶためアメリカのアートセンター・スクールへ留学した経験があり、その当時のスケッチが2000GTのモチーフになったとのこと。

ただ日本国外では、ヤマハ発動機が元々は日産自動車とのスポーツカー共同開発を目論んだ経緯から、それ以前にシルビア(初代)のデザインを監修したとされるドイツ系アメリカ人デザイナー、アルブレヒト・フォン・ゲルツが手がけたという説が広く流布されています。
ゲルツ本人は、晩年の1996年8月に日本の自動車雑誌『ノスタルジックヒーロー』誌によるアメリカでのインタビューで、2000GTへの自身の直接関与を否定しています。
当時のトヨタ自動車に、(もしくはさらに広い意味で、「当時の日本人のセンスでは」)このようなデザインを行えるはずがないという先入観も、ゲルツ・デザイン説が広まる要因となっているようです。

内装はヤマハ製のウッドステアリングとインストルメントパネルをはじめ、回転計などを追加した多眼メーター類によって、2人の乗員に充分な居住性を確保しながら“高級スポーツカー”らしい演出がなされています。この時代の日本車としては、異例の高級感をもつ良質な仕上がりです。

シャシ&パワーユニット

古典的スポーツカーらしくボディと別体となるシャシを持つ2000GT。もちろん、ジャガー・Eタイプやロータス・エランなどの先行例に倣ったX型バックボーンフレームで、低重心・高剛性を実現しています。
トヨタ車としては初めての本格的な四輪独立懸架サスペンションを取り入れ、前後輪ともコイル支持によるダブル・ウィッシュボーンで操縦性と乗り心地の両立に成功しています。
操縦性への配慮から、ステアリング機構はラック・アンド・ピニオン式、スポーツカーとしては当然と言わんばかりに、高速域からの制動力確保を優先して日本初の4輪ディスクブレーキを採用。
エンジンは、クラウン用として量産されていた当時最新鋭の直列6気筒SOHCエンジンの“M型(1,988cc・105PS)”に、ヤマハが開発したDOHCヘッドを載せた“3M型”を搭載しています。このクラスのエンジンとしては小型軽量で、2000GTは直列6気筒エンジンを使用しながらエンジンを前車軸より後方に置く“フロント・ミッドシップ”レイアウトを可能にしています。
3M型には、三国工業(現・ミクニ)がライセンス生産したソレックス型ツイン・キャブレターの3連装とし、150PS/6,600rpm(グロス値)という、当時の日本製乗用車の中でも最強にして最高性能を発揮しています。
これにフル・シンクロメッシュの5速M/Tを組み合わせた2000GTは、0 – 400m15.9秒の加速力と最高速度220km/hを実現しました。当時の2L・スポーツモデルとしては世界トップレベルに達したのです。
とはいえ“M型”は量産型実用エンジン。ノーマル状態では極限までの高性能は追求せずに、公道用のGTカーとしての実用性をも配慮したチューニングにとどめられています。
このため3M型は、その外見的なスペックの割には低速域から扱いやすいエンジンになっているようです。

ちょっとしたこぼれ話

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%83%BB2000GT
独創性に富んだすばらしいデザインの中にも、ちょっとしたこぼれ話が存在します。当時の(今でもそうですが)少量生産スポーツカーには、量産車から部品が流用されるのが常でした。実は2000GTのテールランプは、当時のマイクロバス“コースター”のテールランプを流用しています。縦配置を横に変えて、いかにもなガーニッシュまで用意されていますので、およそ同じものには見えないのですが…。



出生の秘密

文句なしの性能とデザインを与えられたトヨタ2000GTですが、いったいどのような経緯で誕生したのでしょう。

イメージリーダーの不在

1960年代前半の日本は、経済成長に合わせてモータリゼーションが沸き上がった時期です。量産車が主力だったトヨタ自動車に対し、最大の競合メーカーである日産自動車は“フェアレディー”、また四輪車メーカーとしては新興の本田技研工業は“Sシリーズ”をそれぞれ市場に送り出していました。
いずれもオープンボディの軽快なスポーツカーとして日本国内外で人気を集めたのです。自動車レースなどでもメーカーの技術力をアピールし、メーカーのイメージアップに大きく貢献する存在でした。
トヨタ自動車は、日産自動車と並んで日本を代表する最大手自動車メーカーでありながら、当時はスポーツカーを生産していませんでした。クラウンのシャーシを利用した浜素紀デザインの個性的な4座オープンスペシャリティ・モデルの試作などは行われていましたが、その性能はスポーツカーと呼ぶには未熟で世に出ることはなく、自社のイメージリーダーとなるようなスポーツモデルがありませんでした。

スポーツカーの開発

1962年からパブリカのコンポーネンツを用いて、系列会社である関東自動車工業で試作を進めていた“パブリカ・スポーツ”を、“トヨタ・スポーツ800”として1965年から市販しました。
ですがこれは、1,000cc未満のミニ・スポーツカーであって、2,000cc超の乗用車を生産する自動車メーカーとしては、イメージリーダーにするには格が不足していたのです。
輸出市場やレースフィールドで通用する、高性能でより大型の本格的なスポーツカー開発が求められたのでした。
このプロジェクトは1964年9月から開始され、シャーシやスタイリングの基本設計はトヨタ自社によって短期間で進めらました。

ヤマハとのジョイント

2000GTは、ヤマハ発動機とのジョイントで実現されたプロジェクトなんです。どんないきさつだったのでしょうか。 出典: http://www.oppama-garage.jp/nissan_model_2000gt.html
YAMAHA A550X トヨタ自動車が本格スポーツカー計画を始めたころ、オートバイメーカーとしてすでに日本を代表する存在となっていたヤマハ発動機では、日産自動車と提携してクローズド・ボディの高性能スポーツカーの開発を進めていました。実際に、日産との協力で開発コード“A550X”と呼ばれる試作車も作られましたが、日産側の事情により1964年(昭和39年)に開発途中で頓挫してしまいました。
ヤマハはスポーツカー開発の新たなパートナーとして、トヨタ自動車工業にアプローチしたのです。すでにスポーツカー開発に着手していたトヨタ自動車もこれに応諾する形でジョイントプロジェクトが進むのでした。
プロジェクトリーダーの河野二郎、デザイン担当の野崎喩、エンジン担当の高木英匡、シャシーと全体レイアウト担当の山崎進一の4人を中心に1964年(昭和39年)末から共同開発が開始されました。このときに、トヨタ側の開発メンバーはヤマハに赴き、A550X試作車を実見しています。

日産A550X開発時にアルブレヒト・フォン・ゲルツと日産がアドバイザー関係であったことと、A550Xもトヨタ2000GTもリトラクタブルライトのファストバック・クーペという類似性から、後者が前者の改良デザインとも見なせるということも、前述した“2000GTはゲルツがデザインした”という風評につながる要因になっているようです。

ヤマハでの開発

翌1965年(昭和40年)1月より、トヨタ側の開発陣、河野、野崎、高木、山崎の4名がヤマハ発動機に出向き、2000GTの開発プロジェクトを推進することになりました。開発の拠点をヤマハ発動機に移すことになったのは、「トヨタ自動車本社は一切タッチしない。プロジェクトは(前出の)4名とヤマハ発動機でまとめること。」という、なんとも異例の方針がトヨタ自動車から出されたためです。
そんないきさつとは裏腹に、開発プロジェクトは順調に進むのでした。4月末には最終設計図が完成。計画開始からわずか11ヶ月後の8月には試作車第1号が完成し、トヨタ自動車に送られたのです。

ヤマハの技術

当時のトヨタは実用車主力のメーカーで、高性能エンジンの開発や高級GTカーの内装デザインなどには通暁していませんでした。2000GTに与えられた高性能エンジンや良質な内装には、ヤマハ発動機のエンジン開発技術と日本楽器の木工技術が大いに役立てられているのです。
ヤマハ発動機は、戦時中に航空機用の可変ピッチプロペラの装置を製造していた技術・設備を活用するために、1950年代中期からモーターサイクル業界に参入して成功しており、すでに高性能エンジン開発では10年近い技術蓄積を重ねていました。さらに1950年代後半から、モーターサイクル業界ではSOHC・DOHC弁配置の高効率なエンジン導入・研究が進んでいたのです。
このような素地から、ヤマハはトヨタ製の量産エンジンを改良して、DOHCヘッドを備えたエンジンを製作できたのです。
ヤマハ発動機は楽器メーカー(日本楽器製造)が源流で、楽器の材料となる良質木材の取り扱いに長けていました。この技術を活かして、インストルメントパネル(ジャグァにも負けない1枚もの)とステアリングホイール(ともに前期型はウォールナット、後期型はローズウッド製)の材料供給・加工まで担当したのです。

ちょっとした裏話

実はこれ以降、トヨタとヤマハの技術協力は長く続いています。私がメカニックだった頃(もう10年以上前ですが)、トヨタのDOHCエンジンを分解するとヤマハのマーク(3つの音叉)の付いた部品に出くわしたものです。

まことしやかなうわさ話

2000GTはトヨタ自動車・ヤマハ発動機の共同プロジェクトといいながら、実際は(トヨタから出向する形で)ヤマハ社内で行われました。それどころか実車の生産においても、ヤマハおよびその系列企業に委託されたのです。このような経緯から「果たしてトヨタが開発した自動車と捉えるべきか」という疑問が、愛好者や評論家の一部によって呈されているのは事実です。
自動車関係の書籍・雑誌では発売当時から、さらに近年では個人によるブログ上でも「トヨタは2000GTの自力開発ができず、ヤマハが開発・生産したスポーツカーを買い取ったに過ぎない」とか、「これは実際には『ヤマハ2000GT』というべきものである」などと辛辣な評価が行われています。
さらに、「日産・2000GTの試作車がトヨタ・2000GTの原型」と断じる極端な説までもがごく一部で流布されています。
実際のところ、開発からほぼ半世紀が経過している現在でも、両社の開発分担がどのようなものであったのかについては十分に解明されていません。ヤマハ発動機側は2000GTの開発についての公式な言及を「ヤマハの技術供与」としています。



生産から販売まで

上述した通り、その生産のほとんどはヤマハ発動機に委託されたのです。

生産

鈑金・溶接・車体組立・エンジン組立・塗装の工程は、ヤマハ発動機が静岡県磐田市に新設した3号館工場ですべて手作業で行われました。
FRPパーツ類は新居工場(浜名郡新居町)が製造し、内装パネル関係は日本楽器製造に任されました。
ボディのプレス関係は、北川自動車工業(後のヤマハ車体工業、1993年4月にヤマハ発動機に吸収合併)と、(株)畔柳板金工業所(現・畔柳工業)などトヨタ系試作プレスメーカーも担当しています。

販売

発売当時の2000GTの価格は238万円でした。トヨタ自動車の高級車であるクラウンが2台、大衆車のカローラが6台買える程に高価でした。
当時の日本における大卒者の初任給が2万6,000円前後だったそうです。現代で言えば、1,500万円から2,000万円程度にも相当しますので、一般の人々にとっては高嶺の花の超高額車だったのです。

売れば売るほど赤字

とんでもなく高額な価格設定にもかかわらず、それでも生産に手間がかかり過ぎてコスト面で引き合わない価格設定だったそうです。常に赤字計上での販売で、トヨタ自動車にとっては“高価な広告費”だったのです。

広告塔としての成功

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%83%BB2000GT
市販前年の1966年10月1日〜10月4日、茨城県筑波郡谷田部町(現・つくば市)の自動車高速試験場(現在の日本自動車研究所)で、国際記録樹立のためのスピード・トライアルに挑戦しました。
種目はスポーツ法典Eクラス(排気量1,500-2,000cc)の6時間、12時間、24時間、48時間、72時間(排気量無制限)、1,000マイル、2,000マイル、5,000マイル、10,000マイル(排気量無制限)、2,000km、5,000km、10,000km、15,000km(排気量無制限)の合計13カテゴリーです。
当時はポルシェ、クーパー、トライアンフなど、ヨーロッパのそうそうたる一流メーカーがこれらの記録を保有していました。

2000GTは以下の記録を樹立しています。
スピード・トライアル記録
種目と平均速度
6時間:210.42km/h
12時間:208.79km/h
24時間:206.23km/h
48時間:203.80km/h
72時間:206.02km/h
1,000マイル:209.65km/h
2,000マイル:207.48km/h
5,000マイル:204.36km/h
10,000マイル:206.18km/h
2,000km:209.45km/h
5,000km:206.29km/h
10,000km:203.97km/h
15,000km:206.04km/h

このトライアルは、途中で台風に見舞われ、非常に過酷なものだったそうです。
当時としては快挙と言える13種目制覇により、トヨタの技術が世界に証明されたのです。
トヨタはこの記録挑戦を宣伝広告に大いに活用しましたが、翌1967年10月19日〜10月30日モンツァ・サーキットでのポルシェ・911Rによるチャレンジにより大幅に破られてしまいました。

モデルの変遷

3年3ヶ月しか販売されなかった2000GT。いくつかの派生モデルがあります。

マイナーチェンジ

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%83%BB2000GT
後期モデル(北米仕様) 市販開始から2年後の1969年8月、マイナーチェンジが行われました。このマイナーチェンジより前の前期型(1967年5月から1969年7月生産)と、その後の後期型(1969年8月から1970年10月生産)に大別されます。

主な違いは
1.フロントマスク部のデザイン変更(フォグランプリムの小型化によりグリルとの一体感を増し、よりモダンな印象を与えるデザインに。)
2.フロントウィンカーランプカバーおよびリアサイドリフレクターの大型化
3.オイルクーラーの冷却用ルーバーパネルが凸型から凹型へ
4.インストゥルメントパネルのデザイン変更
5.ステアリングホイールのホーンボタンの大型化
6.ヘッドレストの追加
7.車内のドアハンドルの形状変更
8.カークーラーの追加
9.トヨタ ライド(A/T)の追加
10.ボディーカラー種類の追加

2300GT?

直列6気筒SOHC 2,253 cc エンジンを搭載したモデルが少量生産されているようですが、市販には至らなかったので正式通称名は発表されておらず不明です。
市販された2,000ccモデルと区別するために、雑誌やマニアの間で“2300GT”と称されることがあります。
現在トヨタ自動車で保有し展示されている車輌がTOYOTA2000GT輸出仕様であることや、取り付けられているエンブレムが2000GTのままであることから、“2000GT”の名前のままでDOHC2,000 cc とSOHC2,300 cc の2つのモデルでの併売を計画していたとも考えられています。
エンジンは当時北米向輸出仕様のクラウンとコロナマークIIに搭載されていた2M型を基本に、ソレックスツインチョークキャブレターを3連装した2M-B型エンジンを搭載しています。
型式はMF12Lで、MF12L-100001からMF12L-100009までの計9台の車台番号の物が製作されたと言われています。
このうちMF12L-100002はトヨタ自動車で保有し、東京都江東区のMEGAWEB(メガウェブ)ヒストリーガレージに展示されています。
またMF12L-100006はToyota USA Automobile Museumに展示されています。
この開発は、ヤマハ発動機がトヨタ自動車に対して提案する形で進められたようで、生産された全ての車両が左ハンドル仕様。アメリカ市場向けの廉価版として本格生産も考えられたようですが、トヨタ自動車内部での反発に遭い市販には至りませんでした。

オープンボディ

出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%83%BB2000GT
なんと!オープンカーが2台製作されています。販売はクーペ仕様のみだった2000GTですが、日本を舞台にした映画『007は二度死ぬ』(1967年)にはオープンカー仕様車が登場しています。
これは映画撮影用として、試作車をベースとして撮影用と予備用の2台製作されたもの。撮影車両は後年トヨタ博物館に収蔵されたのに対して、予備車両の行方は一部の者を除いて知る機会がなかったため、その存在について長らく様々な憶測や議論を呼んできました。ところが、2011年11月にある自動車雑誌の取材により、予備車両が日本国内に存在し徹底的なレストア作業中であることが報告されています。
オープン仕様の車両は、オリジナルの撮影用(及び予備)車両のほか米国のコレクターPeter Nelsonが製作したレプリカもあります。こちらに組み込まれている特殊装備は、撮影に使用された“本物”で(保管していた映画製作会社からの提供を受けた)、イギリスのThe Bond Museum(閉館)を経て、現在はアメリカのMiami Auto Museumに展示されているそうです。
またそれ以外にも、オーナーの趣味でオープントップやタルガトップに改造された数台の車両が知られています。

これは割と有名な話ですが、ボンドカー仕様の2000GTがオープンカーとなった理由は、長身のショーン・コネリーが2000GTのクーペ仕様が狭すぎて乗れなかったためだとか。

生産終了

どこまでいっても赤字生産で、イメージリーダーカーとして充分な役割を果たしたとの判断から、1970年で生産は終了しました。
1967年5月から1970年8月までの3年3ヶ月で試作車を含め337台が生産されました。

その後

生産終了後は、希少価値もあって2000GTの存在は日本国内外で後年まで伝説的に語られるようになりました。特に1970年代後半のスーパーカーブームでは、既に生産終了していた2000GTは日本で唯一のスーパーカー扱いをされました。
熱心な愛好者によるクラブも日本国内外に多く存在します。 日本車において絶版人気車種の筆頭に上げられる車種となり、中古車市場ではプレミアム価格付きの高額で取引されています。新車時に日本国外に輸出された2000GTを日本に逆輸入することもあったようです。
2013年にはクラシックカーを専門に取り扱うRM auctions社が行うオークションで、日本車としては最高値である1,155,000ドル(約1億1800万円)で落札されています。

レプリカの存在

熱心なファンによって、レプリカ製作が実現されています。ユーノスロードスターをベースにした割と安価なモデルから、完全復刻に近しいものまであります。 出典: http://roadstergarage.jp/model/2000gt_04.html
roadster 龍妃 トヨタ自動車のお膝元、愛知県蒲郡市にあるロードスターガレージが提供しているレプリカモデルです。
ユーノスロドスターをベースに、トヨタ2000GTのディテールを完全再現しています。
単なるクーペ化だけでなく、フロントウィンドーを変更し、Aピラーを後方へ移植するなど、各部においてさらにオリジナリティを高めています。

Roadster Garage
出典: http://instagify.com/tag/rockyhvspecial
こちらは何かをベースにするのではなく、“ゼロから作っちゃいました”というから格好良すぎです。愛知県は岡崎市のロッキーオートが制作したロッキー3000GTです。
エンジンはアリスト用の3,000cc6気筒だそうです。
ロッキーオートでは、アクア用ハイブリッドエンジンを搭載したモデルも制作しています。
すでにオーダーが殺到しており、初期オーダーの車両が年内にも登録されるそうです。

RockyAuto

最後にまとめてみます

トヨタ2000GTについてあれやこれやと思い巡らしていたら、懐かしいことを思い出しました。小学生の頃、社会見学と称してトヨタ自動車の工場見学に行ったこと。子供ながらにとてもワクワクしましたね。
あの頃は今よりも人の手に頼っていたのでしょうけど、それでもロボット達が次から次へと車を送り出す姿は圧巻でした。もちろん2000GTの生産ラインではありませんよ。まだギリギリ40代ですので。ただ、見学の後におみやげとしてもらえるモデルカーが2000GTだったんです。このモデルカーは、車軸が回転する(つまり走る)ように出来ていて、付属のカタパルトにセットしてロックを外すと、内蔵のバネの力で飛び出すように走らせて遊ぶことができるものでした。
後で知ったのですが、これは一般向けの販売はされていない非売品なんです(大切にとっておけばよかったです)。
トヨタ博物館で2006年12月に開催された特別展“プラモデルとスロットカー”で、小中学生向けの体験工作イベント用として1日200個限定で無料配布されたそうです。工場見学の際にもらえるものはもっともポピュラーなアイボリー色でしたが、このイベントで配布されたものは水色だったとか。
歴代のモデルカーは、トヨタのショールームであるトヨタ会館に展示されているとのこと。そこには黄色の2000GTモデルカーや化粧箱、組み立て説明書等も展示されているそうです。
トヨタの記録では、1970年以降は2000GTだったとされていますが、それ以前のモデルが何だったのかは不明です。
1999年にプリウスのモデルカーに交代し、以後は歴代プリウスが起用されているようです。

子供の頃に憧れたものへのこだわりはいつまでも残っているようで、やはり今でも最高に乗ってみたい1台ですね。
“いつかはクラウン”なんてコピーがありましたが、“いつかは…”で手が届くところではないのですけれど。