ランチアストラトス ラリー車としての成功と市販車としての失敗

1970年代に、世界ラリー選手権で常勝を誇ったランチアストラトス。それまでの“乗用車をベースにしてラリーに参戦する”という概念を根底から覆した車です。ホモロゲート規定までも利用して勝ちにこだわった生粋のラリーウェポンであるランチアストラトス。そんなストラトスの魅力を徹底的に解剖してみようと思います。

ストラトスという車

“ストラトス”という名前の車は3種類あります。2010年に1台だけ生産されたストラトスレプリカもあるのですが、これはランチア製ではなくフェラーリF430ストラダーレを改造した車輌ですので、ここでは数えない事にします。



ストラトス“ゼロ”

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“これがストラトス?”という声が聞こえてきそうですが、これが世に出た初めてのストラトスです。ベルトーネが製作したショー・カー“ストラトス・ゼロ”です。1970年のトリノ・ショーで発表されました。ショーカーながら走行に必要なものすべてを有していて、コンセプトモデルよりも量産車に近い存在といえます。
ランチアフルヴィアの動力ユニット(エンジン、ギアボックス)やシャシを流用していて、MR(ミッドシップエンジン、後輪駆動)レイアウトはすでにここで成立していました。
ショー・カーらしく乗降用のドアはフロントガラスを兼ねたハッチ式で、ノーズにある“LANCIA”のロゴ部分がドアノブになっています。フロントガラスを跳ね上げ、ステアリングコラムを跳ね上げてから乗り降りするという、とても風変わりな設計になっていました。
この時点では、ストラトス・ゼロはまだ量産からはほど遠い単なるショー・カーでしたので、フルヴィアに代わる“ラリーで勝つための車”を欲しがっていたランチアにとって、この車は眼中にありませんでした。

プロトティーポの開発

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ランチアにとっては興味の薄いストラトス・ゼロではありますが、ベルトーネにとってランチア側とのいくどかのミーティングにより提示されていた“量産モデルとなった場合の年間生産台数3万台”という話は、利益を考えても充分魅力的な内容でした。そこでベルトーネは、ストラトス・ゼロがMRというラリー競技車にとって有利なレイアウトであることを利用して、ランチアに対してここからさらに量産化に向けた売り込みをかけつづけるとともに、さまざまな要素を検討したのでした。

ラリー競技での勝利を目指せる車を欲しがっていたランチアのワークス・チーム責任者を務めていたチェーザレ・フィオリオは、ベルトーネに対し無理難題を押しつけながらもクリアできるのであればぜひ採用したいとのオファーを送るのでした。
当時、ランチアはフィアットグループに参入したばかりで、ランチア製品ラインナップの縮小と言う現状を利用し、“手持ちの駒がなければ作ればいい”という発想から、チームディレクター、エンジニア、メカニックまでもの意見をまとめて、ストラトスの条件として以下の内容を提示したと言われています。

1.補修、点検が容易に行える整備性
2.過酷なサファリ・ステージに耐える頑強な機械機構(高い信頼性)
3.ラリーでの高度な運動性能

ベルトーネはこの難題に対して真摯に取り組み、“これらが2、3年で色あせてはならない”という命題のもとに1つのボディを完成させたのでした。
強固なモノコック構造のコックピットとその前後に堅固なスチールフレームを締結し、そのフレーム上にそれぞれ前後端のフックで大きく開口する軽量な前後カウルをかぶせた(後にヒンジ化され、実戦仕様ではさらに肉薄化される)ボディでした。
エンジンやトランスミッションを搭載する車体後半部分は、整備性を最優先した骨格になっています。
サスペンションの構造は、同時期にフィアットで開発され、同じくベルトーネ在籍のマルチェロ・ガンディーニがストラトスと並行してデザインに携わっていた“フィアット・X1/9”と同形式の、高い剛性のサスペンションが採用されました。
X1/9はタルガ・フローリオに出場し、このサスペンションに関して高い評価を得ましたが、プロトティーポ時点でのストラトスのサスペンションは、実戦やテスト走行でのデータから改善が必要な段階にありました。
全長とホイールベースの短いストラトスは高剛性を確保しやすく、当時のF1マシンに匹敵するほどだったといいます。高いボディ剛性のおかげで、ワークスチームのラリーカーも大きな補強を必要とせず、ほぼそのままの状態で参戦しています。この強固なシャシーの発案自体は、X1/9の開発にも関与していたダラーラで、製作はランボルギーニ・カウンタックや後のBMW・M1のフレームも担当したウンベルト・マルケージでした。

ストラトスには高い競技能力が期待されたため、同様にMRシャシ・レイアウトのX1/9で世界ラリー選手権(WRC)に参戦するよりも、より宣伝効果の高いグループ4にストラトスを優先投入することがフィアットの販売戦略で決定されたのでした。
かくしてランチアは、ラリー選手権で勝利できる車輌を手に入れたのです。

プロトティーポの熟成

1971年のトリノ・ショーでは、発展系のプロトタイプが発表されました。ラリーチームのエースドライバーであるサンドロ・ムナーリ、クラウディオ・マリオーリの意見も取り入れられて開発が続けられます。
ついに完成した最終プロトタイプが、スポンサーの意向もあり1972年のツール・ド・コルスからWRCのプロトタイプクラスに投入されたのでした。
ツール・ド・コルス参戦当初はサスペンションにトラブルを抱えていたものの、その後もダラーラのバックアップ体制の下で熟成は続けられました。
1973年には、量産モデルにとても近いプロトタイプが発表されました。後に純正オプションとなるルーフとリヤのスポイラーがない点、前後カウルのアウトレットルーバーの形状の違い。ダッシュボード上に計器類が配列されている点、ワイパーが2本式である点が量産型ストラダーレとの違いです。
この時点で、ランチアはデチューン版の量販車輌・ストラダーレの開発も同時進行することを決めています。プロトティーポを実戦投入しながら、ランチアの既存の設備で製造できるレベルのストラダーレ用パーツの開発も行うことになるのです。
それでも1973年中に行われる予定だったストラダーレの生産は、大幅に遅れつつありました。



ストラダーレの量産

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当時のラリー車は量産車両を競技用に改造したものが一般的でしたので、グループ4といえども量産車の競技用特別仕様を想定したものでした。“連続する12か月に5,000台を生産した量産GTカー”をグループ3として公認し、それをベースに改造した車両をグループ4とする規定でした。
ランチアのチェーザレ・フィオリオは、グループ4のホモロゲーション取得のための必須生産台数が“連続12か月間に400台”と少ないことを利用して、グループ3車からパワートレーンだけを流用した競技専用車に近い車両を製作して、ラリーに持ち込むという手法を思いつくのです。
まんまと1974年の10月にグループ4の公認を受け取りましたが、フェラーリからのエンジンの供給が途絶えがちだったことから、規定台数を製造できたのは翌1975年以降になりました。

ラリーでの成功と量産車としての失敗

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ストラダーレ仕様車は量産車としてリリースしてはいるものの、座席は2名分しかなくラゲッジスペーもほぼ皆無で、実用性と掛け離れたレイアウトとなっていました。その上馬力や排気量至上主義であった当時のスーパーカーファンとしては、この車以上の数値を持つ車が数多く存在する中でラリー競技に特化したストラトスへの理解は低く、成功したと言える販売成績ではありませんでした。
さらに、フェラーリ側は以前から続いているフィアット・ディーノへ優先的にエンジンを供給しなければならない立場にあり、ランチア自体も1973年のオイルショック後の景気回復までの影響が災いし、ストラダーレという市販仕様でさえも消費者ニーズの優先順位としては低く、利益には繋がりませんでした。
最終的な全体での生産台数はFIAの規定台数をクリアしたものの、フィアットの意向もあってストラトスの生産は492台に留まったのでした。
悪いことに、その時点でストラトスの生産工程があるベルトーネのグルリアスコ工場が火災に見舞われたのです。全体生産台数に計上される予定であった1/5程のストラトスを消失してしまったのです。世界的なコレクターの調査によれば、結果的に当時の残存数は生産済みのもの含め400台を満たしてはいないとのことです。
諸々の事情から、ラリーを宣伝材料に利用したフィアットの販売戦略は、その対象を高価で特殊な車から大衆車へと転換することになるのです。同社のラリーイメージを鮮明にするためのワークス活動の素材を、フィアット・131を基にした“フィアット・131アバルトラリー”へと早々に変更すると同時に、ストラトス・プロジェクトに深く関与していたゴッバートはランチアのジェネラルディレクターを解任されてしまいます。
チームエンジニアを兼任していたF1ドライバーであったマイク・パークスは死去し、フィオリオに至っては1977年よりフィアットのモータースポーツ部門責任者も兼任することに。苦渋の思いで、あと5年はラリーでトップを渡りあえるだろう熟成度7割程であったストラトスでのワークス活動の引き際を模索する事になりました。
ランチアのWRC活動は縮小され、その年の末のフィアットのモータースポーツ部門との統廃合により、両社のカラースキームはラリー活動をフィアットが担い、ランチアはスポーツカーレースへの参戦が割り振られたのです。
1974年から製造開始されたストラダーレ仕様は、後期のラリー仕様と同様の両側に張り出すフェンダーが純正オプション化され、プロトタイプでは前後ダブルウィッシュボーンであったサスペンションも、リアはマクファーソン・ストラットに改められていたのでした。
元々ラリー車として開発された設計思想からサスペンションは調整可能な構造であり、最低地上高は130から165mmの間で車高調整できました。ストラダーレではフロントアップライトはフィアット・124用が使用されています。
サスペンションピックアップの調整しろはジオメトリーが変更できるほどではなかったものの、スプリングとダンパーはオプションとして数種類が用意されていました。使用状況に合わせて選択することができましたし、スポーツオプションとして固定式のスタビライザーも用意されていました。

ディーノ246GTのエンジン

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ランチア・ストラトスのエンジンは、フェラーリ・ディーノ246GT/GTSやフィアット・ディーノに使われたものと基本的に同じです。
ラリー用に中低速重視へセッティングが見直され、最高出力で5PS低下、発生回転数も200rpm低くなっています。ギア比が極端なクロスレシオに設定されていることもあり、最高速はディーノ246GT/GTSと比べて幾分遅い230km/hです。

開発の初期段階では、フルヴィアの水冷V型4気筒エンジンを一旦検討しましたが、ワークスカーでも160PS程度と性能的にはすでに限界でした。フィアットから131のエンジンを提案されましたが、競技車両用としては重すぎました。当時のランチアには新たにエンジンを新造する時間も資金もなく、ランチア・ベータ用に開発中だった2.0L水冷直列4気筒DOHCにほぼ決まりかけていました。
ところが1970年のツール・ド・フランス・オートモーティブでのムナーリによるテストドライブで、フェラーリから借り受けた同じミッドシップ車であるディーノでのテストドライブの感触がよかったことと、1971年にトリノ・ショーで発表されたストラトスには、仮のエンジンとしてディーノ206GTのユニットが搭載されていたのでした。
それを目の当りにしたチェーザレ・フィオリオがフェラーリと親会社のフィアットに提案し、当時現行であったディーノ246GTの2,418ccユニットを獲得することに成功したのです。

落ち着きのないハンドリング

実際に運転したことはありませんが、オーナーのご厚意でサーキット走行に同乗させて頂いたことがあります。
助手席でも、ランチア・ストラトスが純粋にラリーでの勝利だけを見据えて開発された車だということが体感できます。
それは、超ワイドトレッド×超ショートホイールベースによる直進安定性を無視したようなタイヤ配置がすべてを物語っています。荷重移動とブレーキ操作のみで旋回させられるような車を他に見たことがありません。