【ランボルギーニイオタ】数奇な運命を辿った特別な“スーパーカー”

実は“ランボルギーニ・イオタ”という名前の車は存在しません。でも、“イオタ”を知っている人は大勢いますし、私もその1人です。しかも、実際に“Jota”のエンブレムが付いている車が存在するのですから、なんだか不思議というか難しい話ですね。スーパーカー世代を惹き付けて止まない至極の1台“イオタ”。不思議なことになっている名前のいきさつも含めて、イオタという車について考えてみたいと思います。

ミウラとの深い関係

ランボルギーニ・ミウラという車があります。1966年に発表された実に美しく素晴らしいパフォーマンスを持つ車です。イオタという車は、このミウラととても深い関係にあります。
できれば、先にランボルギーニ・ミウラについて書いた記事を読んでみて下さい。 40代後半~の方ならご理解いただけるでしょう。“ミウラ”と聞いただけで落ち着きを無くしてしまうことを。その美しいスタイリング。その官能的なサウンド。そして、そこにいるだけで他を圧倒するオーラ。ミドシップと言われてもよくわからなかったけど、“エンジンが後ろにある!”ということだけは理解していたあの頃を思い出してください。



“イオタ”とは何者か

出典: http://www.car-mag.jp/contents/historic/jota.html
この写真が“イオタ”なのかどうかはわかりません。なぜなら、ランボルギーニから正式に“イオタ”と命名された車輌は存在しないからです。

極秘裏に製作された1台のテスト車輌“J”

先ほど、ミウラとの関わりが深いと書きましたね。ミウラは1967年から販売されましたが、注文した顧客から早いリリースを望まれ、サスペンションセッティングなどを煮詰める前に生産を開始してしまいました。その結果、高速走行時にフロントが落ち着かない、コーナーで急激なリバースステアに見舞われる、などの問題があったのです。
当時ランボルギーニのテストドライバーを務めたボブ・ウォレスが、“ミウラの改善のためのテスト車輌”という名目で1台の車を製作します。当時の競技車両規定の付則“J項”に則って製作されたことから、この車は“J”と名付けられました。
“ミウラの改善のため”という名目だったのは、当時のランボルギーニには“レースへの出場禁止”という社是があったためで、実のところはレーシングカー開発が目的だったのでしょう。でなければ競技車両規定に沿って製作する必要がありません。

この“J”は外見や寸法、パワートレインをミウラから流用していましたが、一方で車両の基本となるシャシ部分は、リアセクションの一部を除いてサスペンション形式やジオメトリ、ステアリングラックのマウント位置まで全く異なる独自の設計を採用していました。
トレッドも広げられていて、ブレーキはベンチレーテッド・タイプのディスクが採用されています。ホイールはフロント9インチ、リア12インチと超幅広のカンパニョーロ(現テクノマグネシオ)製です。
シャシの材質は鋼鉄製ではあるものの、部分的には軽合金の採用により軽量化が図られていて、シャシとボディーパネルはブラインドリベットで接合されています。薄いアルミのエッジからの破断防止のためにパネル表面には多数のリベットが打たれていて、このリベットが“J”とミウラの外観上の大きな差異になっています。
ボディーはルーフこそミウラと共通の鋼鉄製ですが、前後カウルはアルミニウム製に変更されています。ヘッドランプは、ミウラのポップアップ式からアクリルで覆われた固定式に変更されました。フロントのグリル面積も拡大され、グリルの両側に小さなスポイラーが追加されました。
給油口もフロントフェンダーに露出する形に変更されています。スペアタイヤや実用性のないトランクも装備されていますが、これらは当時の競技車両規定を満たすためのもの。
エンジン・トランスミッションはベースこそミウラのまま、横置のイシゴニス式で排気量も3,929ccのままですが、内容は完全なスペシャルで、シリンダーヘッド、プロフィールの異なるカムシャフト、ハイコンプレッションを可能にしたピストンなど、多くの専用パーツを使用しています。ドライサンプ化され、圧縮比は11.5まで高められた典型的な高回転型設定になりました。ベンチテストでは、440ps/8,500rpmを記録しています。
クラッチは専用の強化型で、トランスミッションはZF社製。ギア比はクロス化されデファレンシャルもZF社製のセルフロッキングタイプが組まれました。
0→100km/h加速は3.6秒、最高速度は300km/hを軽く超えたといいます。
サスペンションは、マクラーレンのカンナムカーを手本に製作されたもので、アーム類を自作してコニ社製の強化ショックとスプリングを採用し、レーシングカーそのもののセッティングが施されました。
ホイールは、カンパニョーロ社製の特注マグネシウム製です。
ウォレスはこの特製ホイールを2セットオーダーしましたが、1セットはクラッシュによって廃棄されもう1セットは後に製作したウラッコ・ラリーに使用されました。
組み合わされるタイヤは、最初はミシュラン社製のHSを装着。次にピレリ社のP7、P7Rに交換されました。
その他消火器やキルスイッチも装備して、厳密に車両規定J項を満たしています。



“J”の行方

ミウラの救世主である“J”は、ボブ・ウォレスのチームによって3万kmほどの走行実験を行ないました。このテストから得られたデータにより、ミウラの最終モデル“SV”ができあがったのです。仕事を全うした“J”にはシャシNo.4683が与えられて、1972年8月2日ジャリーノ・ジュリーニという人物に売却されました。
その後、“スクーデリア・ブレシア・コルサ(Scuderia Brescia Corse )”のオーナーであり、車のコレクターでもあるアルフレッド・ ベルポナー(Dr Alfredo Belponer )が購入します。
しかしこの取引を仲介した自動車販売業者エンリコ・パゾリーニ(Enrico Pasolini )が、ミラノ東部にある開通前のブレシア高速道路で高速テスト中に、230km/hで5速にシフトアップしようとした瞬間にノーズが浮き上がり、横転して車両火災が発生し、“J”は廃車になってしまったのです。
エンリコ・パゾリーニは1ヶ月程の入院で済んだものの“J”は修理不能な状況で、その残骸はランボルギーニが回収し、エンジン等の再生可能パーツを取り外して別の個体に載せ変えられました。
かくして“J”の短い生涯は幕を下ろしたのです。

レプリカの制作と“イオタ”の名前

出典: http://supercarnet.digiweb.jp/File/File-Lambo/Jota/Jota.htm
当時、ランボルギーニの工場を訪れてオリジナル“J”を見た顧客からの強い要望によって、“J”の売却から遡ること約1年の間に、ミウラを元にした“J”のレプリカを数台製造しました。それらはSVJ(SVベースのJ仕様)の名前で生産証明が発行されています。
いつしかSVJは、ラテン文字の字母“J”のスペイン語における名称である“Jota(イオタ)”と呼ばれるようになります。1台しか作らなかったオリジナルの“J”も“Jota”と呼ばれるようになりました。
“Jota”をスペイン語で発音すると“イオタ”ではなく“ホータ”となるのですが…。ちなみに、イタリア語には“J”の文字が存在しない(日本=Giapponeが有名な例)ため、“Iota”と表記されているものもあります。
このように、現存するイオタは全てレプリカということになります。ランボルギーニ純正のレプリカ以外にも、個人オーナーにより独自にイオタ化されたミウラが多数存在します。

イオタたちの行方

ランボルギーニ本社でも、SVJについて正確には把握できていない模様です。
シャシNo.4088、4860、4934、4990、5084、5090、5113の7台がSVJという見解になっていますが、No.4808、4892、5100もSVJに非常に近いため調査中といわれて久しいのです。
以下はわかっている限りの内容です。

シャシNo.4860
ランボルギーニのドイツディーラー社長だったヘルベルト・ハーネの注文で、新車のミウラP400SVをベースに製作されたもの。1971年4月29日にSVJとして工場から出荷されました。エンジンはオリジナル“J”のスペア用として製作された440ps仕様とのことです。

シャシNo.4892
1971年7月にミウラP400SVとして販売された後、1972年頃工場に戻されてSVJに改装された1台。1977年に京都のトミタ・オートによって日本に輸入され、岡崎宏司によりテストレポートが執筆され、1977年9月号のモーターファン誌に掲載されています。
各地のスーパーカーショーで“本物のイオタ”として展示された車輌です。エンジンはミウラSVを基本にライトチューンが行なわれたということですが、ウェットサンプのままなのでノーマルのSV仕様かもしれません。
当時の装着タイヤはピレリ・レーシングのオールウェザーだったようです。輸入後、オーナーの手により各部にモディファイを施され、これに試乗した福野礼一郎はその仕上がりを絶賛しています。奈良県、東京都のオーナーを経由した後、2010年にアメリカに売却されました。

シャシNo.4934
イラン皇帝のモハンマド・レザー・パフラヴィー氏がオーダーした1台。イラン革命後、長らく宮殿内に保管されていましたが、1990年代に放出された際にハリウッドスターのニコラス・ケイジがオークションで落札しました。
ニコラス・ケイジが2003年まで所有し、イギリスのガレージに売却されています。

シャシNo.5090
新車のミウラP400SVをベースに製作され、1972年8月25日に工場を出た1台。エンジンはドライサンプ仕様・400ps。

シャシNo.5100
こちらも新車のミウラP400SVをベースに製作され、1972年8月31日に工場を出た1台。エンジンはドライサンプ仕様・400ps。

シャシNo.4990
1972年4月18日に工場を出たミウラP400SVをベースに、1972年秋頃SVJに改装された1台。ハイチの富豪に売却されました。エンジンはミウラSVを基本にライトチューンが行なわれたというがウェットサンプのまま。1998年現在は日本にあることが確認されています。

シャシNo.3781“SVR”
1968年11月30日に工場を出たミウラP400がベースで、ヘルベルト・ハーネの注文でSVJに改装され1975年11月工場を出た1台。
当時の最新ロープロファイルタイヤ“ピレリP7”を装着するため、後輪用にノーマルと同じパターンの3ピースディープリムホイールをカンパニョーロが製作しました。それに合わせてリアフェンダーがかなり拡大されています。
ハーネは、自分のディーラー工場でレカロのシート、AUTOFLUGのシートベルト、ブラウプンクトのオーディオ、BBSのホイール、ウォルター・ウルフがオーダーした極初期のカウンタックLP400に装着されていたものと同形のリアウイングを取り付けました。ストックのSVJに比べてよりレーシーな外観に仕上がっています。
この車はSVRと呼ばれ、一人のオーナーを経て当時30万米ドルで日本人に売却されました。1976年6月2日に日本に上陸しています。長らく愛知県小牧市のショップが保管していました。
かつてはNo.4892と同様に各地のスーパーカーショーで展示されて回った車輌です。現在オーナーは代わりましたが、今も日本にあります。
ある意味、日本では一番有名なイオタではないでしょうか。
多くのプラモデルメーカーがこの車輌から型取りして製品化したため、日本ではこれがイオタのスタンダードになっていました。 出典: http://makeupseisaku.seesaa.net/upload/detail/image/IMG_1883-thumbnail2.JPG.html
SVR

イオタという車

結局のところ“ランボルギーニ・イオタ”は何者なのか? という疑問については解決のしようがないのですが、ボブ・ウォレスがミウラの問題解決のために作り上げた試作車である“J”と、そのレプリカ“SVJ”に対する俗称というのが一番しっくり来るのではないでしょうか。

“J”の製造当時ウォレスは、「潤滑系統のエンジン性能への貢献度、操縦性の向上、総合的な製造品質を調べたかっただけ」と語っているそうですが、その内容であればほぼゼロからの新造である必要はなかったはずです。
対してランボルギーニの総帥であったフェルッチオは「やりたいなら好きにさせてやれ」といっていたそうです。レーシングドライバー、ボブ・ウォレスの性格を見抜いての事だったのかもしれませんね。
フェルッチオは、ランボルギーニ社としてのレース参加を禁じていました。これは、ライバルであるフェラーリが“本業はレースでの勝利。市販車はレース活動のための資金集め”と公言し、ユーザーをないがしろにしているという考えからでした。
実のところフェルッチオは一度フェラーリオーナーになっていますが、クラッチトラブルに悩まされ続けたため改善をフェラーリに進言したが取り合ってくれなかったという逸話があります。
フェルッチオが自動車メーカーを興したのはそれがきっかけだったという話も、まことしやかに囁かれています。
世が世、時代が時代だったら、もしかしたら“J”はレースシーンで大活躍していたかもしれないですね。