少しとがった日産サニー「ダットサン・サニー」列伝

2004年、ティーダラティオを後継車として引退した「日産サニー」。後期はFF化し日産を代表するファミリーカーの色合いが強くなりましたが、初期は「ダットサン」ブランドの下、レースなどにも出場していた「とがったクルマ」で、しかもトヨタ・カローラと熾烈な販売競争を繰り広げていました。今回は、そんな古き好きサニーを調べてみたいと思います。

名社長が開発に反対していた「日産サニー」

「ダットサン110型系、210型系」、そしてその後継となった初代「日産ブルーバード」310型系と立て続けにヒットしていた日産自動車。2代目ブルーバード410型系は苦戦したものの、「乗用車のニッサン、トラックのトヨタ」と言われるほど小型車市場で確固たる地位を占めた日産では、410型ブルーバードのテコ入れのため1,200cc以上のモデルに移行させることを決めました。このことは、日産自動車のラインナップから700cc〜1,000ccが空白になることを意味していました。

この時期、ライバルのトヨタは700ccクラスにパブリカを発売し、爆発的な売れ行きとまではいかないものの堅調な売上を示していました。また、他の自動車メーカー各社も700cc〜1,000ccクラスの小型車市場への参入あるいは参入の計画を進めていました。当然、ブルーバードで占めていたクラスを明け渡すことはないと日産の社内では、このクラスでのニューモデル開発をはじめようとします。しかし、この時点で経営幹部、特に当時の社長、川俣克二は別の見方をしていました。新車をブルーバードの下位クラスに投入することは、テコ入れとしてクラスアップしたブルーバードを食いかねないと考えていたのです。そのため、700〜1,000ccクラスへの新型車投入には非常に消極的で「お金のない方はブルーバードの中古をお買いになればよろしい」とまで言っていたのです。ただ、川俣克二が頑迷な経営者ではなく、むしろ「日産中興の祖」とも言われ、プリンス自動車工業との合併などで日産を日本第二位の自動車メーカーに押し上げた名経営者だったのです。いわば、名経営者と言えども必ずしも正しい判断をし続けるわけではない。というのは時間が証明することとなりました。

一方、日産社内での小型新型車開発の待望論は強く、開発陣は商用車を開発するとして川俣克二を説得し、このことで新型車の作成にのりだすことができました。



車名募集に850万通の応募。そして「ダットサン・サニー」販売へ

1966年、社長の説得からはじまった小型新型車の開発は販売に至りました。このクルマの名前は850万通の公募案から選ばれた「サニー」。ラインナップされたボディタイプはセダンのみ。そのボディには大型プレス材を多用することで部品点数を抑え、また加工コストを引き下げた形で実現した軽量モノコックを採用しています。デザインやフロントサスペンションにリーフスプリングを採用するなどの構造は、1962年に販売されていたオペル・カデットの影響を受けたと言われています。このようにアメリカ企業傘下のヨーロッパ自動車メーカーが販売した小型乗用車の影響は、暫くの間サニーだけではなくトヨタ・カローラにも見られた特徴です。その後、ボディタイプは2ドア・4ドアセダン、2ドアクーペ、2ドアライトバン、トラックと順次追加されていき、合計で5タイプで構成されることになります。

サニーに搭載されたエンジンは「A型」と名付けられたサニー専用で、直列4気筒のA型は、その後30年に亘って改良されながら製造が続けられた名エンジンになっていきます。当初のA型エンジンは、1,000ccハイカムシャフトOHVのA10型で特徴として軽量かつシンプルな構造を持ち、エントリーモデルには必須な経済性も兼ね備えていました。更に、低回転域でブレることもなく、高回転まで回るという万能な特性を持っていたため、後にサニーがモータースポーツに利用されだすと、チューニングに対しても柔軟に対応ができるポテンシャルの高さを示していました。

傑作A10型エンジンと軽量ボディー、マーケティングも成功し好調な出だし

サニーが市場に投入される前の1965年12月、日産自動車初の新型車の車名公募のキャンペーンが大々的に行われます。この時の応募総数が850万通といわれています。そして年が明けた1966年2月19日に選定された新車名「サニー」が発表され、その発表会には鮎川義介(日産自動車創業者)も立ち会っています。このような活動は格好のマーケティングにもなります。1966年4月23日に「ダットサン・サニー(B10型)」として2ドアセダンが発売されます。この発売されたばかりのダットサン・サニーの売上は非常に好調でした。デザインもロングノーズで非常にモダンなスタイルでしたし、A10型エンジンは最高速度135km/h、56ps/6000rpmと1,000ccの小さなエンジンとしては良いスペックを出していましたし、先ほど書いたように軽量モノコックボディにリーフスプリングを採用したサスペンションとR.B式ステアリングの軽くて確実な反応でライバルのカローラに対してスポーティーさをアピールしていました。更に、ブルーバードまでに蓄えた乗用車作りの経験から、広いルームスペースを確保し、同時に外光を取り込みやすい大きなウインドウが備えられ快適なドライブを支援しています。更にセパレートシートや当時の1,000ccクラスとしては評価の高い静粛性、そして未舗装路を考慮した防塵対策などもドライバーだけではなく、同乗者に対しても快適さを高めています。

トヨタの猛反撃で「カローラ・サニー戦争」勃発!

このように新たなライバルの台頭に対してトヨタもただ指をくわえて見守るはずもなありません。カローラに対してデラックスさをセールスポイントに置いたアピールをはじめます。このマーケティング戦略はサニーにとっては痛手となり、一旦、売上を減らしてしまいます。しかし、1968年2月には2ドアクーペを追加し、そこでデラックス仕様のエディションにラジオやヒーター、リクライニング・シートを採用しデラックスさに対する劣勢を跳ね返そうとします。

そう、ここからサニーの生産終了まで続く長い長い「C/S戦争」あるいは「カローラ・サニー戦争」という熾烈な売上競争が開戦したことになるのです。

ロングセラー「サニトラ」のベース。二代目サニー

1970年、サニーは2代目のB110型系へと進化します。2代目に与えられたボディタイプは2ドアと4ドアのセダンと2ドアクーペ、そしてライトバンの4種類でした。この2代目につけられたキャッチコピーは「隣のクルマが小さく見えます」というもの。明らかにカローラを意識したフレーズが示す通り、ボディサイズをを大きくすることで、日産がB110型に求めた「大きく、豊かな」イメージを持つスタイリングを実現したのです。

エンジンはA10型をサイズアップしたA12型1200cc直列4気筒ターンフローOHVで、最高出力は68馬力と大きくパワーアップを果たしています。このA12型は、従来の3ベアリング式に比べ高回転化に適した5ベアリング式へ変更されています。その理由は明らかに、当初から5ベアリング4気筒ターンフローOHVを採用していたカローラのK型/3K型エンジンへの対抗意識の現れで、エンジニアたちはカローラのエンジン性能を凌駕することを改良の目標としていたそうです。なお、足まわりにはフロントサスペンションにマクファーソン・ストラット式の独立懸架を、リアサスペンションには二重防振機構付の懸架方式を採用しています。ちなみに、アメリカへの輸出も行われ、そこで行われた燃費テストで最良の省燃費車ということが判明します。この事実はサニーの性能への賞賛につながり販売を後押しするものとなりました。

打倒カローラのため「エクセレント・シリーズ」追加

初代でも充分な居住性を誇った室内空間もボディのサイズアップのおかげもあり、当時の1,200ccクラスでは最も広いものとなりました。そこに納められたインテリア類はカローラを意識したデラックスと呼べるレベルにたっしていました。インテリアもメーター、スイッチ類、シートなど細部にわたり「豊かさ」をテーマとした2代目サニーにふさわしい豪華さを追求しました。そして、もう一つは安全対策です。衝撃吸収構造にしたインストルメントを装備他、雨模様のドライブで起こりがちな窓の曇りを取り除くため、このクラスでは初となるオート・ベンチレーション・システムを取り入れ、窓を閉じたままでも換気ができるようにしています。

そして1971年4月、4ドアセダンとクーペに「エクセレント・シリーズ」が追加されます。このシリーズは、標準B110型サニーよりもホイールベースは40mm、フロントのオーバーハングを130mm延長し、1,400cc直列4気筒SOHC(L14型)を搭載しています。このシリーズ追加の目的は、当然「カローラ対策」です。この時期、E20系カローラがT型1,400ccを搭載したことで、性能向上をセールスポイントとしていたため、カローラの優位性を消すこととなりました。なお、当時の日産ではロータリーエンジンを開発していました。当初、「エクセレント・シリーズ」発表の最大のアピールポイントに「ロータリーエンジン搭載」を謳おうとしていたのです。しかし、思惑通りには行かずに新シリーズ発表には間に合いませんでした(同年10月「第19回東京モーターショー」にロータリーエンジン搭載車を参考出品)。もし、間に合っていたら日産もマツダと同じようにロータリーエンジンでレースに参加していたのでしょうか…。 初代でもピックアップトラックのサニー「サニートラック」がありましたが、2代目サニーでも「サニートラック(B120型)」が作られました。このサニートラックは「サニトラ」とも呼ばれ親しまれたクルマです。このB120型サニートラックは、セダンやクーペなどの乗用車系B110型が生産を終了した後もマイナーチェンジを繰り返して、長寿車種になっていきます。

B120型サニートラックの生産終了は、日本国内向けで1994年3月(23年間)、海外輸出用2008年9月(37年間)と非常に長いものでした。いろいろな理由があっての長寿化でしたが、その理由の中にはそれだけB120型サニートラックの基本的な設計が優れていたことが挙げられるのではないでしょうか。



3代目サニーは個性的なデザインでライバルと差別化

3代目サニー、B210型は1973年5月に発売されました。ボディーサイズはB110型よりも更に一回り大きくなり、「若々しさ」「ダイナミックさ」を意識したデザインは「アクが強い」と言われるような個性的なものとなりました。

その特徴は、アメリカ市場で人気のあった曲線を多用していること、またクーペは、荷物の積み降ろしに便利なよう大開口のリヤゲートを装備したハッチバック・スタイルを採用したのです。そして、エクセレントのクーペはテールランプが丸型3連という更に個性的なスタイルを採用しています。このスタイルはロケットエンジンの噴射口のように見え「ロケット・クーペ」や「ロケット・サニー」と呼ばれることになりました。このようにボディータイプは2ドア、4ドアセダンと3ドアクーペ、2ドア / 4ドアバンの5種類となっています。

サニーのボディにブルーバードのエンジンを積んだエクセレント

一回り大きくなったサイズに関するものでは、ホイールベースをエクセレント・シリーズも含め各型共通とし、フロントのオーバーハングについてはエクセレント・シリーズだけ若干の延長が行われています。

エンジンは2代目110型と同じく、通常は1,200ccのA12型エンジンを搭載、そしてエクセレント・シリーズにはブルーバードに使われていた1,400ccのL14型エンジンを搭載しました。また、それぞれにシングルキャブ仕様とツインキャブ仕様が設定されました。そして、エクセレント・シリーズにはサーボ付ディスクブレーキが全車標準装備となり高い出力に対する制御能力を高めています(ただし、サニー1200のみデラックス以下のグレードはドラムブレーキとされています)。

この3代目210型サニーは、1976年2月にマイナーチェンジが行われました。この変更でエクセレント・シリーズのエンジンがL16型1,600ccSOHCに換装されています。エクセレント・シリーズ以外の1,400ccエンジン搭載車にはチェリー用のF10型OHV(A14型)エンジンが搭載され、A12型を搭載した1,200ccについてはA12型は引き続いて搭載を続けています。

最後のFRバージョン、4代目サニー

1977年11月に発売された4代目サニー(B310型)は、「格調の高さ」をテーマに開発され、最後のFR方式のサニーとなりました。格調の高さを表現するため、室内幅を広げることで居住空間を拡大し、静粛性を向上やトータルカラー・コーディネーションが図られることで、全体に落ち着きのある車室を実現しています。

発売されると、すぐに登録累計300万台達成しています。外観に対する変更は、B210がデラックス仕様をセールスポイントとし過ぎたのではないかという反省、特にオイルショックという自動車にとって大きな悪影響を与えた社会的変動の中で、「ベーシックカー」としてのあり方を見なおして、2代目サニーを思わせるような機能性、シンプルさを表現した直線的なフォルムを作り出しています。ある意味「原点回帰」とも言える方向転換ですね。そして、新車種「日産スタンザ」がエクセレント・シリーズのコンセプトを引き継ぐ形で誕生したことから、サニーのラインナップからは廃止され、より質実剛健なイメージをアピールするものとなりました。

サニーカリフォルニアの追加でファミリーユースを鮮明化

エンジンは、全車がOHVのA型エンジン搭載車し、1,200ccのA12A型、1,400ccのA14型の2形式だけにまとまりました。

1978年8月には、輸出累計200万台を突破した中で、翌年1979年1月「サニーカリフォルニア」をラインナップに追加しています。このサニーカリフォルニアは、バックドアを大きく寝かせ、バンとは一見して違いがわかるシルエットとしています。

そして、この4代目サニーも歴代サニーでもそうだったのですが、TSや富士フレッシュマンなどのレースに参加し活躍をしています。しかし、これが最後のFRモデルになり、以後はマーチの発売などもありモータースポーツからは徐々に姿を消していきます。

まとめ

当初、サニーの開発に難色を示していた社長、川俣克二は後にサニーがヒットすると「(サニーの開発を)やっておいて良かったな」と素直に脱帽したそうです。特に初期のサニーは国内レースが実験場であり、マーケティングの場だったこともあり、スポーティーさとファミリーユースを両立させた傑作車両だと思います。4代目までFR、そして5台目からはFFの「日産」ブランドと大きな転機を迎え、スポーツイメージが薄れていったのは時代の流れだったのでしょうか。

2004年には、与えられいた使命をティーダラティオに譲り、850万通の応募を集めた末に決まった「サニー」と言う車名も失われましたが、今でも初期サニーを中心としたファンを持つ傑作車は、日産の歴史の中で今後も記念され続けるものではないでしょうか。

もしまた日産が若年層からファミリー層までをターゲットにする大衆的な新車を開発するなら、是非、「サニー」の名前を復活させてはいただけないでしょうか。